法律ではそうなっているかもしれないけれど

混乱の本当の原因」で取り上げた権利の乱用に関連して。

 「法律ではそうかもしれないけれど」、「契約上はそうかもしれないけれど」、「いくらなんでも、それはないんじゃないか?」という問題は多々ある。法律が社会の良識と完全に一致するような結果をもたらすものではない限り、どうしてもそういうことは起こりえる。

 何と言っても、一番有名なのがこの例だろう。中世のイングランド人であったシェークスピアの書いたベニスの商人の話である。金貸しのシャイロックは、大商人アントニオに貸した金を返せなければアントニオの体から肉1ポンドを切り取ってもいいという条件で金を貸す。不幸なことが続きアントニオは金を返せなくなってしまう。シャイロックはベニスの法廷に出て、肉1ポンドを切り取る権利を、法廷に認めさせようとする。困ったことにベニスの法律上、そして契約上は彼の言うことは正しい。しかし、切り取らせればアントニオは死んでしまう。皆が法律や契約を無視することもできず困っているとき、法学者に化けたポーシャが現れ、判決を下す。肉1ポンドを切り取ってもいいと。喜んだシャイロックが切り取ろうとすると、ポーシャは付け加える。肉は切り取ってもいいが、正確に1ポンドでなければならない。血は一滴も流してはいけないと。これによって、アントニオは助かり、シャイロックはひどい目にいあう。

 これは裁判官が、何とかして法律上、契約上の権利義務と社会的な感覚の両立を図った例である。注目すべきは、ポーシャはシャイロックの権利自体は認めていることである。権利を認めつつ、その行使を事実上禁止しているのである。法や、契約をあからさまに否認するという裁判の存在自体を否定してしまうような議論を展開したわけではない。そのような判決を下せば、法律や契約に基づく秩序を、その秩序を守るべき立場にある裁判所自体が否定してしまうことになる。これを回避しつつ、社会的に妥当な結果を導いたからこそ、名判決なのである。

 しかし、この物語を読んだ金貸しは学ぶことだろう。契約をしっかりしたものにしなければとんでもないことになると。そして契約を注意深く作ることになる。今度は、契約に切り取る肉は0.5ポンドから1.5ポンドの範囲、血が流れてもかまわないと書けばいいのである。

 ポーシャはどうすればいいだろうか?大陸法系の国なら簡単である。契約上の権利は認めるが、その権利の行使は、権利の乱用であるとして否定すればいいのである。これでは劇にならない。

 では、ベニスではなく、大陸法系の国でもない中世のイングランド王国ではどうすればいいのだろうか?ここで、イングランドの法律の歴史を考える必要が出てくる。イングランドの基本的な法律はコモンローである。これは古来の地域共同体ごとに長い時間をかけて作られた法が、これまた長い時間をかけて徐々に統一されてできてきたもので、判例法である。その起源から、民衆の法という性格を持つといってもいいのではないかと、私は思う。コモンローの裁判所の判決が受け入れがたいものであったら、被告はどうしたらいいだろうか?

 国王のgrace(恩恵) とcharity(慈悲)を求めて国王に訴える道が残されていた。国王は正義の源泉と考えられていたのである。実際には国王が裁判をする訳ではなく、大法官に裁判を委ねていた。(正確に言えば、元来は、大法官は裁判官ではなかった。国王が出す文書管理の責任者だったのである。責任者として、国王の名前で被告を裁判所に呼び出す令状の作成、送付を行っていたのである。それがいつの間にか裁判そのものをするようになっていったのである。)この大法官は知識人でなければならないが、当時の知識人と言えばキリスト教の聖職者しかいない。大法官には、キリスト教の高位の聖職者がなっていたのである。

 ただし、国王といえども、したがって大法官にも、コモンローそのものを否定したり、コモンローの裁判所の出した判決を破棄したりする権限はなかった。それをすれば民衆の法を無視することになる。ではどうしたか?コモンロー上認められた権利を認めつつ、その行使を禁じたのである。また、コモンローに基づく損害賠償ではなく義務の履行を命ずることもあった。

 そういうことをするには理屈が必要である。理屈は、コモンロー上は権利を持つものの最高の利益のためにそうするというものである。確かにあなたはそのようにする権利を持っている。しかし、その権利を行使すれば、あなたの魂は害される。ひょっとすると、死後、地獄へ落ちてしまうかもしれない。キリスト教の高位の聖職者である私がそう考えるのだから間違いはない。キリスト教の高位の聖職者である私は、そのようなことになるのを見ていられない。あなたのために、あなたがコモンロー上の権利を行使するのを禁ずる、ということなのである。このような判決が積み重なると、これも判例法となる。コモンローに対して、こちらはエクイティーと呼ばれる。大陸法系の権利の乱用と、理屈は違うが、効果は同じである。こういったシステムは、法の不備を補うために、どうしても必要なのだろう。

 シャイロック対アントニオ事件であれば、シャイロックが肉を切り取ることは、汝、何時殺すなかれという第五戒に反する行為である。まず間違いなくエクイティーでは、権利の行使は禁じられるだろう。この場合なら、シャイロックを除けばだれも文句を言わないだろう。「王様、万歳」である。(劇を読んで不思議に思うのは、シャイロックに対し、誰も第五戒を持ち出して説得していないことである。十戒ユダヤ教聖典である旧約聖書にあり、ユダヤ人であるシャイロックはこれに従わなければならないのだから。)

 では、アメリカならどうなっただろうか?エクイティーの議論の前に、そもそも、独立前は、コモンローさえ素直には受け入れられなかったのである。というのは、清教徒たちはイングランドでコモンローに基づいて弾圧され、アメリカに渡ったという歴史的経緯があるからである。

 その後、イングランドの法律は、徐々にアメリカで受け入れられるようになった。しかし、エクイティーには、民衆の法であるコモンローを、国王が恣意的に、事実上無効にするという面がある。アメリカでは、国王の代理として総督がエクイティーを乱用したという、これまた歴史的な経緯があった。そこで、国王に対して反乱を起こして独立したアメリカでは、エクイティーはあまり受け入れられなかった。

 すると、司法がどんなに知恵を絞ってみても、コモンローに従うと社会通念に合わない結果が出てしまう時はどうすればいいか?憲法で、厳密な三権分立制をとったから大統領が命令を出して、どうこうするというわけにもいかない。議会の制定する法律、スタチューによるほかはない。制定法はコモンローを破るのである。

 伝統に基づくコモンローでは、契約自由、解雇も原則として自由である。すると、人種差別や男女差別による解雇も自由となってしまう。伝統的に人種差別や男女差別が容認されていた時代に形成されたコモンローでは、変化した社会通念に応じた判決を出すことには限界があるのだ。そこで、判例法を破るために議会が法律を制定することになる。かくして、解雇は自由、ただし制定法に基づく差別的解雇は許されないという法体系が、アメリカでは出来上がったのである。

 歴史的経緯から、こうなったのであって、これが唯一絶対の正しいシステムというわけではないのだ。

人気blogランキングでは「社会科学」の34位でした。↓クリックをお願いします。

人気blogランキング