では、何を基準に解雇者を人選するのを正当と認めるのか?

古い話ですがですが、この前の記事を書いていて、「では、何を基準に解雇するのか?」にhamachanさんから、「こんなコメント」をいただいてていたことを思い出しました。

私が書いた次の部分を引用されてのコメントです。何か、お腹立ちなのかなと思えるのですが。

平家の書いたこと

いわゆる正社員の既得権益を否定したとすると、誰を解雇するのかという問題に直面することになります。

「その人選の基準はなんなのか?」これに応えない限り実際に整理解雇はできませんし、その基準に従った整理解雇の効果も分かりません。正社員の雇用保障を弱めるというのは、ある答えを否定することであって、何らかの答えを出しているわけではないのです。

hamachanさんのコメント

誰が「直面」するのでしょうか。誰が「答え」を出すのでしょうか。

実は、ここには、現在の労働問題を論ずる構えの問題点が凝縮しているように思われます。

「誰を解雇するのか」にまず誰よりも先に直面するのは、その会社の経営者と労働者です。そして、そうである以上、そこには先験的に一義的な答えなどあろうはずがなく、労使の協議交渉で決まるべきという手続き的な正義があるだけです。

今までも、主として正社員を組織する労働組合との協議交渉で決まるべきという労使関係システムの大原則があったはずです。それが空洞化する中で「誰を解雇するのか」という本来労使が決めるべきことを裁判官に委ねておかしいとも思わない発想が瀰漫していったのです。

今問題なのは、そういう手続き的正統性が、非正規労働者を排除する形で担保されるのかということでしょう。かつてのパート主婦やアルバイト学生が主体であった時代であれば、彼ら自身自分たちが先に解雇されることに疑いを持たなかったからそれで済んでいたわけですが、今やそうではない、とすれば、非正規労働者も含めた労働者全員の意見を組み込んだものでなければ、それはそもそも正統性を維持し得ないのではないか。

平家の書いたこと

例えば、勤続年数の短い者から解雇、雇い止めをするということであれば、正社員の既得権益はなくなったとしても、勤続年数の長いものに新たな既得権益を与えることになります。私には、「女房子どもの生活に責任を負って」いないものから解雇、雇い止めをするということに一定の合理性を感じてしまうのですが、この場合も新たな既得権益を創り出すことに変わりはありません。年金など生活の糧を得る別な手段のある者といった基準でも同じことです。「くじ引き」といった手法ではなく、何らかの基準を建てるのであれば、そこには必ず解雇されにくい労働者が出てきます。雇用保障には必ず差が出るのです。

その基準が何なのか、それにより、より強い雇用保障(という既得権)を得るのが誰なのかを明らかにしないと、議論は終わりません。

hamachanさんのコメント

当たり前です。誰かを解雇しなければならないという状況になる前に、あらかじめ誰を解雇すべきかがすべて決まっていなければならないのでしょうか。決まっていないからこそ、労働者全員の声を出して議論しなければならないのです。正規も非正規も含めて。

労使関係とは動態的なものです。正規も非正規も含めて、誰に先に辞めてもらい、誰を残すのか、あらかじめ答えのない討議のプロセスを経ることが手続き的正統性なのであって、静態的に常にあらかじめ法制的に正しい答えを用意しておけばいいという話ではありません。それは、悪い意味における法律屋的発想です。

そういう悪しき法律屋的発想が瀰漫しすぎたことが、労働法をかえってひからびたものにしてしまっているように思われます。

これから誰を解雇するかというときに既に「議論が終わ」っていたのでは、そもそも議論になりません。

労使関係とは既に(誰かの教科書に書いてある)正解を個別事例に当てはめる司法行為ではなく、答えのない問いに集団的に答えを出そうとする政治的行為なのです。

お答え

「当たり前」のことを書いて怒られるのは、割に合わない気がします。まあ、それはさておき、hamachanさんは、何か誤解をしているのではないかという気がしています。

私の主張は、「整理解雇の四条件を緩和、または廃止せよ」と主張される方々への議論なのです。

誰を整理解雇するかを決めるのは使用者です。それを受けてか、その前にか労働者と話し合って「手続き的正義」にのっとって人選することはあるでしょう。しかし、解雇、正確には解雇の意思表示をするのは使用者です。

ですから、「手続き的正義」があっても、解雇される本人が納得できなければ、使用者を相手に裁判に訴える権利はあります。

日本国憲法32条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。

その場合に、裁判所は判決を下さなければなりません。そのとき、裁判所が「手続きが尽くされているから解雇は有効」という判決を出かどうかは分かりませんが、何らかの判決は下すでしょう。そのときに「たとえ手続きが尽くされていあっとしてもこの基準に照らして無効」という判決が下されれば、その基準は整理解雇を行う時の司法的と呼ぶべきか社会的と形容すべきか分かりませんが基準として働き始めるはずです。

つまり、誰を整理解雇するかを使用者が決めるときに、その基準を考慮して決めることになるだろうということです。

「悪い意味における法律屋的発想」を否定し、手続的正義を重視する立場から、「正規も非正規も含めて、誰に先に辞めてもらい、誰を残すのか、あらかじめ答えのない討議のプロセスを経ることが手続き的正統性なのであって、静態的に常にあらかじめ法制的に正しい答えを用意しておけばいいという話ではありません。」というお気持ちはある程度分かるつもりです。

したがって、「整理解雇の四条件を緩和、または廃止せよ」と主張される方々がhamachanさんに同意されるなら、

「整理解雇の四条件を緩和、または廃止して、労働者全員の声を出して議論して決めるという基準を建てよ」と主張していただきたい。それは首尾一貫した議論であると認めます。賛否は別として。

また、「整理解雇の四条件を緩和、または廃止して、こういう基準に変えろ」と主張されるならそれも首尾一貫した議論であると認めます。これも賛否は賛否は別として。

さらに、「整理解雇の四条件を緩和、または廃止して、解雇自由(通常、常識的な法律家が使う意味での「解雇自由」です。)にせよ」と主張されるならそれも首尾一貫した議論であると認めます。その場合、こういう規定を作ることになります。

労働契約法第十六条  整理のための解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合であっても、その権利を濫用したものとはせず、有効とする。

とんでもない主張だと思いますが、それはそれとして。

しかし、単に「整理解雇の四条件を緩和、または廃止せよ。」というだけの主張、「正社員の既得権益を奪えという」スローガン的主張には意味がないと考えています。なぜなら、この主張では、「議論は終わ」らないからです。

そして、「では、何を基準に解雇者を人選するのを正当と認めるのか?」という問いは、使用者に、労働者に、(国会に)、裁判所にも向けた問いではありますが、特に整理解雇の規制緩和を唱える方々に向けています。

(2009年5月31日追記)

「整理解雇の四条件を緩和、または廃止して、労働者全員の声を出して議論して決めるという基準を建てよ」ということになれば、労働者全体の声の中で有力なものが「既得権」となる可能性があります。

「整理解雇の四条件を緩和、または廃止して、こういう基準に変えろ」となると、その基準に従って「既得権」が発生する可能性があります。

「整理解雇の四条件を緩和、または廃止して、解雇自由(通常、常識的な法律家が使う意味での「解雇自由」です。)にせよ」と主張が通れば、「既得権」は発生しないかもしれません。どの労働者も権利を持たないからです。その場合、使用者の意(恣意も含めて)にかなう労働者が解雇されないので、そのような労働者が有利になります。

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