混乱の本当の原因

WEDGE大竹論文の問題点」で hamachanさんがこう書かれています。長いのですが引用します。 労働経済学者は往々にして、意識的にか無意識的にか、この両者(平家注 解雇権濫用法理と整理解雇4要件)をごっちゃにした議論をしたがるんですね。大竹先生だけの話ではありません。 思うに、この法理混同の原因は、この世で発生する解雇という現象を、経済学者にとって経済理論で容易に理解可能な、つまり通常の合理的意思決定に基づく合理的行動である整理解雇の概念枠組みでもって理解しようという成功(平家注 性向)に由来するものではないかと思われます。 ところが、現実に行われる解雇のかなりの部分は、そういう合理性で説明可能というよりは、人間ってこういうばかげた理由で人を首にできるんだなあ、とあきれるような話が多いんですね。現実世界は経済学者が想定するより遙かに不合理に満ちています。 ある人が、経済学者は生理学者であり、法学者が病理学者であるといいましたが、整理解雇は生理現象であり、ちゃんと働いているのに「お前は生意気だから首だ!」ってのは病理現象であって、後者は、人間は合理的に行動する者であるという経済学者の想定からすると、なかなかすっと入らないのではないかと思われます。 病理学者である法学者にとっては、異常性の表れである一般解雇の規制がまず第一義的なもので、合理性の表れである整理解雇はその応用問題に過ぎないのですが、生理学者である経済学者にとっては全く逆なのでしょう。 ごちゃごちゃ書きましたが、要するに、経済学者が解雇権濫用法理と整理解雇法理をごっちゃにするのは必ずしも悪意からというよりは、そのディシプリンからくるところという面があるのではないかということです。 (中略) 一般的な解雇に対する規制は、およそまともな労働契約関係秩序を維持しようと思えば、絶対的に不可欠なものであって、使用者による恣意的な解雇という病理現象をやり放題にして良いなどと言うばかげた話は許されるものではありません。 深い理解に基づいて書かれたご意見で特に異論はないのですが、実は別の理由もあるのではないかと思います。経済学者には、「権利の乱用」ということが良く分からないのではないでしょうか。 経済学者にとっては「ある場合には自分の持っている権利を行使してはならない」ということが理解しにくいのでしょう。権利の行使に対する制約=権利そのものの剥奪あるいは制限、規制と読み替えられている可能性が高いと感じています。経済学者にとっては、労働基準法による差別の禁止(解雇は労働条件ですから)、解雇の制限と解雇権乱用法理による解雇の無効の差が良く分からないということです。 私がこう思うのは、経済学者の書いたものをいくつか読んでみて、民法第1条第3項に触れたものが皆無だったからです。 これはある意味では当然です。労働法学者が解雇権乱用についてきたものを見ても、あまり民法第1条第3項まで遡って説明していないようです。労働法学者の皆さん、間違っていたらすいません。それは別に法学者が手を抜いているわけではなく、民法の一般条項は労働法学者にとっては自明であり、労働法学者が専門書や論文を書くときに想定する読者も当然知っているはずだからでしょう。例外は「大内先生のこの本」ですが、これは新書で、一般人向けだからここまで書かれたのでしょう。経済学者は学者ですから、労働法を勉強するとき専門書や論文を読むのでしょう。そういうやり方で労働法を勉強すれば、権利の乱用を十分に理解できないことになります。経済学者の皆さん、間違っていたらごめんなさい。 経済学者には、自由(権)の制限を嫌う性向もあります。この立場からは、「『使用者による恣意的な解雇』は確かに「病理現象」であり、望ましくはないが、それは市場メカニズムの中で解決すべき(されていく)もので、政府(国)が自由(権)を制限することによって解決すべきではない。なぜなら自由は市場メカニズムの根本であり、そんなことをすれば副作用が出てくるはずだ。政府は市場メカニズムの機能を損なうべきではない。」ということになるでしょう。多分。 ここをクリック、お願いします。 人気blogランキング 人気blogランキングでは「社会科学」では36位でした。