整理解雇の金銭解決も強制されるべきではない

解雇の金銭解決、つまり、国の決めた金銭を支払えば、解雇ができるようにするというシステムは、妥当な社会的ルールだろうか?「整理解雇は禁止されるべきである」で書いた整理解雇の場合について考えてみたい。

具体的なルールがまだ提案されていないので議論がしにくいが、二つ疑問がある。

一つ目の疑問は解雇の必要性と人選の合理性の問題である。このルールでは、国が決めた金銭さえ支払えば、解雇の必要性も人選の合理性も要求されず、あるいは、解雇が必要であることが求められ、さらに人選の合理性も要求され、さらに国が決めた額の金銭の支払いが要求されるのだろうか?

二つ目の疑問は、金銭の額の決定基準である。いったい何を基準に決めるのだろうか?

このルールの決め方によって、社会的な利益については変化が生じるだろう。

しかし、いずれにしても労働者の意思が反映されないという点では同じであり、市場のメカニズムを通じた人選ではないという意味では大きな違いはない。所詮、国がマーケットに替わって誰が取引するか、取引量、価格を決定するという仕組みなのである。

企業も労働者も合理的であるという前提の下では、このようなルールの下で社会的な最適が達成されるという保証はない。整理解雇について金銭解決も認められるべきではない。

ただし、労使ともに合理的ではない場合には、国が介入する余地はあるだろう。

WEDGE大竹論文の問題点」からhamachanのご意見を引用します。

解雇権濫用法理と整理解雇4要件がぐちゃぐちゃで頭を整理し直せ、といわれるでしょう。

ところが、労働経済学者は往々にして、意識的にか無意識的にか、この両者をごっちゃにした議論をしたがるんですね。大竹先生だけの話ではありません。

思うに、この法理混同の原因は、この世で発生する解雇という現象を、経済学者にとって経済理論で容易に理解可能な、つまり通常の合理的意思決定に基づく合理的行動である整理解雇の概念枠組みでもって理解しようという成功(ママ)に由来するものではないかと思われます。

ところが、現実に行われる解雇のかなりの部分は、そういう合理性で説明可能というよりは、人間ってこういうばかげた理由で人を首にできるんだなあ、とあきれるような話が多いんですね。現実世界は経済学者が想定するより遙かに不合理に満ちています。

ある人が、経済学者は生理学者であり、法学者が病理学者であるといいましたが、整理解雇は生理現象であり、ちゃんと働いているのに「お前は生意気だから首だ!」ってのは病理現象であって、後者は、人間は合理的に行動する者であるという経済学者の想定からすると、なかなかすっと入らないのではないかと思われます。

ただしこの場合も、労使が合理的であるかどうかを裁判官なり、調停員なりがきちんと判断できるのかという問題は残るでしょう。

ついでですが、法理混同には別の理由も存在すると、私は思っています。それは、整理解雇と普通解雇について、法学の定義をそのまま採用してしまっていることです。本来、整理解雇の問題を経済学的に取り扱うならば、まず、整理解雇を経済学の言葉で定義しなおすべきなのです。

そもそも法学者が整理解雇と考えるものについて、一つの経済学的な命題が成立するとは限りません。法学的整理解雇のうちこれこれについては、この経済学的命題が、それ以外については、それとは違う経済学的命題が成立するという結果になっても、問題はないはずです。別な学問なのですから。

きちんとした、経済学的な定義をしていないことが、不毛な議論につながっているような気がします。前回のエントリーは経済学的定義の初歩的な試みです。

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