コンメンタール

濱口先生が「学界展望における福井論文の紹介とコメント」で、こう書かれています。学術雑誌での座談会の発言をそのまま転載したものなので、少々分かりにくいです。解説をして見ます。別に絡むつもりはありません。

「この不完備契約理論というのは、労働者にとって情報に非対称性がある。つまり、将来起こり得る事態をすべて雇用契約に明記して、その履行を強制するということはそもそもできないという特質があるということから、どうしても雇用契約というのは粗くなってしまう。そうすると、それにつけ込んで、使用者が機会主義的な行動をする危険性というのが出てくる。それを防止するために解雇を規制する必要があるというものです。」

 1 不完備契約

今、スーパーマーケットへ行って、そこで売っている冷凍食品を買うとしましょう。この場合、お金を払って品物を受け取ればいいのですから、取引は簡単で確実です。しかし、どこか遠くへ旅行に行く場合に、飛行機の予約をしたとします。予約をしてすぐに飛行機に乗るわけではありません。乗るまでの間にいろいろ差し支えが生じるおそれがあります。例えば、飛行機の整備がうまくいかない。パイロットが病気になってしまう。台風が来て飛行機が飛べなくなる。クーデターが起こって飛行場が閉鎖される。自分が病気になって旅行に行けなくなる。行き先でテロが起こって旅行に行く気がなくなる。乗り継ぎ便が欠航することになって、予定していた日に目的地に着けなくなる。飛行機の燃料が高くなって、元の運賃では採算がとれなくなる。

飛行機に乗って、無事に出発した後でも、問題は起こりえます。天候悪化のために引き返す。別な飛行場に着陸する。乱気流に巻き込まれ、飛行機が揺れてけがをする。墜落してしまう。キャビンアテンダントのサービスが悪い。食事が冷えている、まずい。食中毒になる。隣に乗り合わせていた客がコーヒーをこぼして、服を汚される。

このように、契約した時点では分からない将来の出来事があるのを不確実性とよびます。この不確実性があるときにどのような契約が結ばれるかを考えてみましょう。

一つは、起こりうる事態をすべて詳細に列挙して、それぞれの場合に代金を返すかどうか、賠償するかどうかを決めておくことです。これは、そのような契約を結ぶのにすごく手間がかかります。特に、契約が長期であればあるほど起こりうる事態の数は増えていきますから、作業は大変なことになります。契約文書も非常に分厚い物になるでしょう。さらに、契約当事者のどちらも想像しなかったような事態が発生する可能性もあります。契約を結ぶための作業が契約を結ぼうとしている両当事者の能力を超えてしまうおそれがあります。

もう一つの解決方法は、とにかく飛行機が飛んで、無事に着陸しさえすれば代金は払う、そうでなければ払わないといった風に、強引に契約を単純化してしまうことです。この場合、テロが起こったときまで航空会社が責任を持つので、料金が非常に高くなるおそれが出てきます。また、著しく遅れた時も支払わなければならないのはおかしいとか、不可抗力で飛行機に乗れなかった場合も支払わなければならないのは不満だとか、様々な問題が起こり、契約が結べないかもしれません。

最後の方法として、ある程度は決めておき、後で問題が起こったときは、事後的に両者が信義誠実の原則の下で話し合って決めるとしておくことです。取引費用の節約のために、このようにすべての場合について、権利義務をあらかじめ定めず、事後的に再交渉することにする(あるいは意図せずそうなってしまう)契約が数多くあります。これが、「不完備契約」です。労働市場での長期、あるいは期間の定めのない契約は不完備契約になりがちです。

なお、濱口先生は、これを情報の非対称性と結びつけられています。そういう場合もあるでしょうが、むしろ、将来の不確実性と契約当事者の能力の限界(限定合理性)から説明する方が普通ではないかと思います。

2 観察可能性、立証可能性、履行の強制と機会主義的な行動

本来、契約は自発的に誠実に履行されるべきものです。しかし、契約の相手方が履行しないこともあり得ます。

この場合、問題を二つのレベルに分けて考えると分かりやすいでしょう。

一つは、契約の相手方が履行しているかどうか、こちらに分かるかどうかという側面です。観察可能(観測可能)かどうかという表現も使われます。例えば、何か食べ物を買うとき、これは消費期限は切れていないでしょうねと確認して買ったとしましょう。食べてみても、消費期限内のものであったかどうか分からないという可能性はあります。また、飛行機であれば、ちゃんと整備してあるかどうかは分かりません。たまたま、落ちなかっただけなのかもしれません。これは、売り手と買い手の間で情報の非対称性がある一つのケースです。(情報の非対称性は、もっと多くの場面で様々な問題を引き起こします。)

もう一つは、相手方が履行していない場合にそれを第三者に向かって立証できるかどうかという問題です。例えば、会社が残業手当を払ってくれない場合、手当を払ったかどうかは簡単に立証できますが、残業をしたことの立証ができなければ、残業手当の不払いは立証できません。なお、法律に詳しい方には、契約を履行したこと、履行しなかったことの挙証責任がどちらにあるとするか、その法制度の作り方が、この問題に大きな影響を及ぼすことがおわかりだと思います。

もし、観察可能でないばあい、相手を信頼するほかなく、契約をするのは相手の善意を当てにした一種の賭になります。また、観察可能であっても立証可能でない場合には、相手の契約不履行を裁判所などに訴えて履行を強制したり、不履行に対する賠償を求めることができません。この場合も、契約をするのは、一種の賭になります。(なお、本当の賭、違法な賭博の場合には、相手が確かに負け、しかも賭け金を支払っていないことを立証しても、裁判所は何もしてくれないはずです。)観察可能でない場合や、立証不可能な場合、相手の側には、インチキをやる誘因が存在しているわけです。なお、観察や立証のために多額の費用がかかるときは、同じような結果となります。このような費用も取引費用の一部です。

それが意図的な契約違反というような悪意の行動の結果であっても、自分の利益を得る機会があれば、利益を追求する行動のことを機会主義的な行動といいます。

契約する側が、契約することが賭であり、相手方には意図的に契約を履行しないという誘因があることを知っている場合、契約が結ばれない可能性が高まります。君子危うきに近寄らずということになる可能性が出てくるのです。重要なのは、契約の相手側が契約を履行するという固い意志を持っていても、つまり機会主義的な行動を取らない誠実な相手で、契約を結んでも問題が発生しないときですら、契約が結ばれる確率が減ってしまうことです。契約の相手方から見れば、これを避けるためには、何らかの形で自分が機会主義者ではない、あるいは機会主義的な行動を取らないことを立証しなければなりません。神に誓うというのは、一つの伝統的な立証方法です。相手との契約を破ることはできても、神に対する誓いは破れないですから。日本では、起請文というものがありました。

全くの余談ですが、キリスト教の結婚の誓いは、神に対する誓いです。相手に対する約束ではありません。相手との約束なら、相手が約束を破った場合、こちらも約束を守る義務はなくなります。しかし、無条件で神様に誓うのですから、絶対に、たとえ相手が神様に対する誓いを破って(例えば浮気をして)も、自分は誓いを守らなければなりません。

(続く)

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