市場の失敗 その1

濱口先生が「労働者と使用者は決して対等ではない」で、こんなことを書かれています。少し長いのですが、引用します。

東洋経済』2月16日号(特集「雇用漂流」)に掲載された私のインタビュー記事を、次の号が発売されたので、ここにアップしておきます。

特定の労働者を保護することによって、当の労働者自体にマイナスの影響が出ることはあり得る。保護対象外である労働者との格差を生むというのも、ある程度は正しいだろう。解雇規制に関する判例法理が形成されたのは1970年代。当時は正社員が中心で、パートやアルバイトなどの非正規社員は補助的な労働力だった。正社員の雇用を守るために非正規社員に先にやめてもらうということも、社会的な妥当性はあった。それが90年代以降、非正規社員が著しく増加し、社会状況が変化した。それに見合う形で、正社員の解雇規制を緩和し、非正規との調和を図っていくことは必要だろう。

それでは、労働者保護が一切不要かといえば、それは違う。労働者が使用者から一方的に「クビだ」といわれることに対して、何らかの保護はあるべきだ。

ごく単純な労働でない限り、起こりうるすべてを契約に書き尽くすことはできない。その中身が日々決まっていくのが労働契約の特徴だ。そもそも労働者と使用者の立場は対等ではない。こうした現実においては、労使の個別契約ですべて決めるのではなく、問題解決のための集団的、社会的な枠組みが必要だ。

規制緩和論者には、「その会社が嫌なら辞めて他に転職する」というエグジット(出口)があれば労使関係は対等だ、という考え方が強い。だが、労働力という商品は特殊であり、同じ職場で長く働くことによってその性能が高まっていく。ある会社に継続して勤め、能力が高まった労働者は、いったんエグジットしてしまうと、まったく同じ価格で売ることは非常に困難だ。最終的に転職するにせよ、現在の職場で一定のボイス(意見)を発することが認められるべきだろう。

1時間以上にわたるお喋りを編集部の方がまとめられたものなので、自分で書けばちょっと違う書き方になるというところもありますが、おおむね私のいいたいことを的確にまとめていただいています。

(引用終わり)

これと対で掲載された自由主義者規制緩和論者)の議論はこれです。また、引用します。

規制改革会議の第二次答申でも言及した「法と経済学」は、オーソドックスなミクロ経済学や公共経済学のプリンシプルを法分野に応用したものだ。(中略)これは、いわばニュートン力学法則のようなもの。権利は強化するほどその保持者の保護になるという考え方は、よほどの得意な前提を取らない限り成り立たないものであり、圧倒的に多くの事象を説明できる原理的ロジックは、学術的に確立している。

自由主義秩序の基本にあるのは当事者の意志の尊重。その修正が必要なのは「市場の失敗」があるときだけだ。それは、公共財、外部性、取引費用、不完全競争、情報の非対称性の五つ。労働市場は同種同等の選択肢が多数存在するので、ほぼ情報の非対称性を考慮すればよい。行政の最も重要な役割は劣悪な労働条件を隠したり契約を守らない悪徳企業を規制し、情報公開させることだ。

 労使はむろん対等ではないが、転職市場さえ大きければ、労働者も会社に対してものがいえる。

(引用終わり)

こちらについて、いくつかコメントをします。濱口先生は上の引用にあるとおり、編集部のまとめ方におおむね満足されているのですが、こちらはどうなのかよく分かりません。真意が伝わっていない虞があります。それを前提に議論をしようと思います。

「市場の失敗」という専門用語を使っておいでなので、このような主張のベースにあるのは「厚生経済学の第一命題」でしょう。規制緩和の政策提言の背景には、日本経済を自由主義経済に近づけていき、「パレート最適」を達成しよういう野心的な政策プログラムがあるのでしょう。

一番基本的な問題があります。仮に、規制緩和により経済をそのように変えることができ、「市場の失敗」が起こらず、均衡に達したとしましょう。その均衡は、いくつもあるパレート最適の状態のうちのただ一つであるということです。具体的には、今ある財産、人的資源を反映したものになります。これが社会全体にとってもっとも望ましいものであるという保障はどこにもありません。極めて不平等な所得分配をもたらす可能性が存在しています。たとえ、外部性などに基づく狭い意味での「市場の失敗」がなくても、所得の分配に問題がある場合には、修正が必要です。

第二の問題として、パレート最適はひとつの市場についていうものではなく、すべての市場から構成される経済全体に関する概念です。すべての市場で「市場の失敗」をもたらすような要因がなくなることはありえません。外部性や不完全競争を完全になくすのは不可能です。そのとき、労働市場だけ経済学的な理想の市場に作り直せたとして、そこで達成される経済全体の均衡がパレート最適になるとは限りません。そのときは、次善の策として、労働市場では、濱口先生の言われるように「労使の個別契約ですべて決めるのではなく、問題解決のための集団的、社会的な枠組みが必要」なのかもしれません。

第三に、必ずしも労働市場だけの問題ではないのですが(だから余計に深刻なのですが)、現実の世界には、経済学で考えるような理想的な先物市場がないという致命的な欠陥があります。これは長期労働契約、解雇をどう考えるかと言うことにつながる大問題です。ここで理想的な先物市場とは、現在、将来の財の売買契約を行い、将来における変更はないという市場です。

厚生経済学の第Ⅰ命題の前提として、ミクロ経済学では、物理的な性質が同じであっても、その財が提供される時間と場所が異なれば、それは別な財として取り扱われます。そして、別な価格が成立することが予定されています。日付が違う財の価格が違っても、財が異なるのですから、一物一価が成立しているのです。理論の世界の話とは別に、現実の世界でも、現物市場、先物市場という形で、異なる価格が付けられています。日本経済新聞などで商品相場を見れば、どのような市場で先物の相場が立っているかが分かります。ただし、現実の先物市場は理想的なものではありません。

労働市場に即して言えば、現物市場、つまり今働いて今賃金の支払いを受けるという市場は確かに存在しています。しかし、将来働いて、将来賃金を受け取るということを、今契約しておくという市場は殆ど存在しません。全くないわけではありません。大学生なら、卒業すれば働くと言うことで、就職活動をしています。また、転職でも、日雇いでない限り、「今日から」ということはなく、「1週間後から」とか、「来月から」という契約が普通です。しかし、これらの例外を除くと事実上、先物市場は存在していません。現に10年先に東京で事務の仕事をするなどという契約を結べる労働市場はありません。これは、日本だけではなくすべて市場経済の国について言えることです。日本特殊的な現象ではありません。

理想的な先物労働市場があると、とても便利でしょう。例えば、女性の労働者で子供を産もうと計画している人がいれば、こうすればいいのです。将来の賃金を調べて、もっとも賃金が安い時期を選んで、その時期には働かずに出産することにし、その後、復職したいと考える時期を選んで先物労働契約を結んでおけばいいのです。子供を何人も産む予定があれば、その時期に合わせてこういう契約を結んでいけばいいのです。また、保育サービスの先物市場があると、併せて契約しておくともっと便利です。その場合、保育所はその時期に合わせて先物市場で保育に当たる労働者を調達できます。労働者の人生計画を立てるのは楽になりますし、随分、暮らしやすくなるでしょう。経済学的な表現をすれば、効用は高まるでしょう。

また、このような市場があれば、企業は、生産の変動に合わせて労働力をスムーズに調整することができます。学校であれば将来の学生の数に応じた先生を先物労働市場で契約しておけばいいのです。必要な労働者を必要な期間だけ雇えばいいのですから、無駄は生じません。このような市場があれば、企業の利潤最大化に役立つことは間違いありません。

さらに、現実の経済には不確実性が存在します。これへの対処も悩ましい問題ですが、不確実性がある場合には、条件付きで先物労働契約を結ぶことが考えられます。例えば、先ほどの女性の例で言えば、妊娠するかどうかは不確実ですから、これを条件として妊娠したら労働は提供しないが、妊娠しなければ労働を提供するといった契約です。学校であれば学生が集まるかどうかは不確実ですから、これを条件として学生が入学すれば雇うが、少なければ雇わないといった契約になります。

このように、労働者(家計)にとっても企業にとっても、先物労働市場は大いに役立ちます。資源配分も効率化されます。理想的な先物市場があると、将来の時点での需給調整、現在と将来の理想的な資源配分が可能になります。

特に、労働市場との関係で注意しておくべきことがあります。このような市場が存在して均衡が達成されていると、あらかじめ企業と労働者の間で合意された条件の下での雇用の終了は存在しますが、企業からの一方的な解雇、「労働者が使用者から一方的に『クビだ』といわれること」、が存在しなくなります。なぜなら、企業は最初から必要な労働者を必要な期間だけしか雇用していないからです。労働者の過剰の問題は、そもそも発生しません。

また、失業も存在しません。摩擦的失業すらありえません。需給調整の結果、均衡が達成しているのであれば、働いていないのは、働くより余暇を選んでいるだけのことです。

この市場の唯一の欠点はそれが存在しないことです。実に残念なことです。なぜこのような優れた市場が存在しないのか、それも日本に限らずすべての国で存在しないのか、非常に興味のある問題です。一つの理由は、数の問題でしょう。例えば、付けられるべき条件があまりに多様であることも、その原因でしょう。労働者であれば、生きているかどうか、健康かどうか、家族に病人が出ないか、介護の必要に迫られないか、引っ越すかどうか、学校を卒業できるかいろいろな条件があります。企業の側も作る製品が変わったり、事業所の位置が変わったりします。これらは、濱口先生の言われている「起こりうるすべてを(企業と労働者の間の)契約に書き尽くすことはできない。」ということにも通底しています。また、何が起こりうることであるかをあらかじめ想像することができないという経済主体の能力の限界もあります。このようなことがなかったとしても、労働サービスの種類×時期×地域×条件となると労働市場で取引されるべき条件付き労働サービスの数は事実上無限大でしょう。市場の数も無限大に近いものになります。

労働市場は非常に多様、かつ多数の経済主体が関わり、しかも、市場に影響を及ぼす要因が多すぎるのです。日本の株式市場に上場している株式の種類は1万くらいでしょうか?条件付きの債券の数も、付けられている条件の数もそれほどではないと思います。いかに優れた分散型の情報処理機構である市場システムといえども、条件付き労働の取引を円滑に進めるには、能力が不足しているのでしょう。

このように、現在ある市場が不十分な物である以上、市場の失敗が起こっていると考えるべきです。先に述べたように、解雇が発生すること自体が「市場の失敗」が生じていることを証明しているのです。解雇は「市場の失敗」の結果です。したがって、解雇に対して何もせず、その解決を現実の労働市場に委ねることはできません。

(2008年3月3日追記 引用部分を明確にするため、また、文意を明確にするため、少し修正しました。)

(続く)

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