消費者主権

「消費者主権」という言葉には、事実判断としての意味合いと価値判断的な意味合いの両方があります。

 事実判断としては、自由な市場機構のもとでは、最終的には消費者が資源配分の決定権を持っているという事実を意味します。この場合には、消費者の購買力が、選挙の投票権のように社会の意志決定の基礎となる役割を果たすことになります。もちろん、この場合、消費者は自分の選好に従って、購買力を発動することを前提としています。したがって、消費者の選好が社会の資源配分の基礎になるわけです。

 価値判断としては、ある経済の状態が他の経済の状態に比べて良いか、悪いかの判断の基礎に、個人の選好のみを置くべきだというものの考え方です。生産者や国も経済主体ですが、これらは個人の生活のための手段であり、それらが選好を持つとしても、それらを満足させることは目的ではないと考えています。

これに関連して、事実としての消費者主権の社会、つまり、自由な市場機構の社会が良い社会であるという判断が出てきます。

 さて、ここで問題なのは、消費者の選好とは何についての選好かということです。これをどの範囲にとるかによって消費者主権の意味は全く変わってきます。

 一番狭い範囲で考えると、市場で購入できる消費財・サービスについての選好といことになるでしょう。「選好と効用関数」で紹介したような効用関数で考えると、効用は消費財・サービスだけの関数であるということになります。hamachanさんが「山口二郎氏の反省」で

紹介されている次の文章によれば、山口二郎先生は、こういう考え方をされているようです。

当時の改革論議では、規制緩和を徹底したときに何が起こるかという心配をしている人なんて、ほとんどいなかった。その理由としては、「生活者の政治」という構えでものを考えるときに、実は「生活する一番の土台のところを崩される」ということについての警戒というか、予見というのが、できていなかったのだと思います。「生活者を基盤とした政治」とか、今でも簡単に言う人がいますけど、そんなに単純に主張できる者ではなかったということです。

>さっきも言いましたが、生産拠点と生活拠点とを対立させて捉えるというのはやはり間違っている。私たちはみんな労働力を売って、生活の糧を得ているわけですよね。ところが労働市場というのは、私たちが供給者であって、企業が主権者なわけですよ。消費者主権が労働市場においても徹底されるとどういうことになるかというと、雇う側が労働者に好き放題無理難題をふっかけてきて、賃金のダンピングはするわセクハラはするわ、という話になってくるわけですよね。ですから市場化のベクトルあるいは消費者主権という原理で社会のシステムを再編していくというのは、私たち自身にとっても不利益が生ずる側面もあるわけです。結局、消費者主権の論理みたいなものを、脳天気に言いすぎた。消費者主権というものは一つの原理ですから、それが原理主義的に徹底されていくと、私たち自身が労働を売るときにね、同じ原理が適用されてブーメランのように跳ね返ってきているわけです。

>私たちはある意味で生産に参加することで生きているわけですから、その部分では、過当競争を防ぐための生産者カルテル、みたいな発想も必要になってくるわけですよね。ですから、労働組合の役割というものが、市民・生活者の論理と対峙する、という考え方は間違っていると思いますよ。生産と消費がトータルにあって人間生活がなりたつわけですから、その点で90年代の「生活者起点の政治」という議論はとても偏っていたというか、結果的に市場化の方にすくい取られていってしまった、という後悔がありますね。

(引用終わり)

こう書かれると、経済学(者)が考えてきた消費者主権は悪である、といって言いすぎであれば、不完全であるということになるでしょう。

しかし、消費者主権をこういう意味に使うのは、経済学の用法としては例外的だと思います。経済学者の多くは、消費者の選好の対象は市場で購入できる消費財・サービスだけではなく、労働も対象に入ると考えていると思います。効用は消費財・サービスのみならず労働の関数でもあると考えるのです。消費財・サービスの消費者とその生産者を対として考えるのではなく、消費の主体でもあり労働という生産要素の提供者である家計と生産の主体であり労働の需要者でもある企業(生産者)を対と考えているはずです。

経済学では、労働者は生産者とは表現されないのが普通です。その意味では、山口先生の生産者という言葉の使い方は経済学の使い方とは異なります。誤解のないように、あえて付け加えますが、経済学的な使い方しかしてはいけないと言うことではありません。違っているということを言っているだけです。

脇道にそれますが、私は、生活者とは働いて、稼いだ所得(賃金が中心ですがそれ以外のものもあります。例えば、子育てとか。)消費する者だと思います。ここで、消費には、過去に働いていてそのときに貯蓄したものを取り崩して消費すること、働いて得た賃金で年金保険料を払って、そして年金を受け取って、消費することも含みます。多くの国民の購買力の基礎には労働があるからです。一人の人間、一つの家計は労働と消費を行っているのですから、(それ以外の活動もしています。)生活者と労働者を対立するものとしてとらえるのはなどというのは意味がありません。

本筋に戻って、経済学を学んだ者は、経済学の議論の場でないところで、簡単化のために、家計を消費者と、消費財・サービスと労働を消費と簡略化して表現することが多いので、これが誤解を招いているのだと思います。反省すべきかもしれません。

一つの例がこれです。岩本先生の文章です。

 重要なのは,最初にある「法律や制度の国民目線の総点検」である。経済学が市場を見る原則は消費者主権であり,政策のあり方としてはしごく当然のことである。しかし,経済政策の現場では,ときとして消費者の利益がないがしろにされ,生産者の利益が優先される。基本中の基本のところで,政策がおかしくなっている。(「経済政策の原則は消費者主権」)

ここで岩本先生が生産者と対比して消費者といっているのは家計だろうと思います。

この調査は,審議会で消費者の意見を代表する委員の数が非常に少ないことを示している。そうした委員がゼロの審議会も多数存在する。そうした場合にも経済学者が委員に入っていれば,消費者主権の考えに則って,消費者の利益を代表するべきであろう。それができない人は,たとえ経済学部教授を名乗っていても,経済学者ではない。(「審議会で消費者の利益を代表するべき人たち」)

まぁ、すべての審議会に消費者代表と労働者代表を入れろという主張もありえるでしょうが、とりあえず、経済学者の皆さんには、労働者の利益も代表していただきたいと思います。

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