「均衡予算乗数 補足」について

均衡予算乗数 補足」のまた補足です。

経済的厚生について

1 個人の幸せは経済的なものだけでは決まりません。あの人が浮気を止めてくれたら、どんなに幸せか、この病気が治ればと考えている人は大勢いるはずです。でも、個人、あるいは家計を取れば、お金で買えるものも重要であることは間違いがありません。

なお、逆にそのような欲望を捨てることによって、心の平和、安心を得るという方向もあります。こういう考え方を広めるという政策もあるかもしれません。

2 幸せのうち経済的なものだけで個人の幸せを考えるとしても、それを一国全体で集計して、ただ一つの数字で表すというのは、どう考えても、相当な無理がかかる仕事です。ある個人間と別な人の幸せ度が同じか、違うとすればどれだけ違うのかすら、うまく数字では表せないのですから。また、どの人にどれだけのウェイトを与えるかも難しい問題です。

3 それでも、豊かな国と貧しい国で幸福度に差があることは、おそらく正しいでしょう。

そこで敢えて、無理を承知で、マクロの経済的な厚生を測るとすれば、国内総支出(=国内総生産=国内総所得)全体で測るのではなく、マクロの消費から得られる厚生と政府サービスから得られる厚生と社会資本から得られる厚生の組み合わせで測るべきとする見解も成り立ちます。

さらに、国民をより幸せにするということを基本に経済政策を考えると、このように財やサービスを消費するという側面だけを見ていてはいけないのではないかと思います。人間は社会的な生き物で、社会の中で自分の居場所、自分の価値を認められることを必要とします。

今の世の中で、社会の中での居場所、価値を認められるというと、経済的に決まる働く場(と、家族)、働くことですから、ちゃんとした仕事をもてるかどうか、家庭をもてるかどうかということもかなり重要です。

4 政府サービスから得られる厚生というのは市場での価格では測れない可能性が高いでしょう。そもそも、市場ではこの種のサービスをうまく提供できないから政府が提供しているのですから。社会資本、例えば公園、良好な治安から直接得られる厚生も同じことでしょう。これをどうやって計ればいいのか、よく分かりません。

5 それに、厳密に言えば、個人の消費だってそこから得られる効用を正確に測れているかどうか?買ったけれども使われないまま捨ててしまわれるものだってあるります。支出したものと実際に使ったものの間には差があるのが普通です。レストランの食べ残しなどが、その典型的な例です。おまけに、お金を使ってその後むなしさを感じたり、無駄遣いをしてしまったと後悔することだってあるのですから。(それともこれは、私だけでしょうか?)ただ、別荘、装身具、コレクションなどは持っているだけで幸せという人が居るかもしれませんから、複雑です。

6 そんな問題はあっても、国民総生産と国民の厚生が、まったく無関係だとはいえないでしょう。

経済活動の水準を測るための手段

理想的な国内総生産概念

1 取引される財やサービスの価格と量がミクロ経済学の想定する完全競争の市場で決まると想定すれば、市場での取引とそこで決まった価格で経済活動は考えられる。雇用量とも関係が深いでしょう。

2 特に、政府サービスにはそもそもそのような市場が理論的には成立しないので、政府サービスの価格、提供された政府サービスの総額をどう想定するかは難題です。

3 生産への貢献に対する報酬(賃金と営業余剰)、つまり所得の分配と得られた所得の再分配は理論的には分けて考えられています。

4 理想的な完全な体系である限り、均衡予算乗数は再分配の乗数より1大きい。

国内総生産を実際に測る

1 取引される財やサービスの価格と量がミクロ経済学の想定する完全競争の市場で決まってはいません。統計を作ろうと思えば、それを受け入れざるを得ません。ただ、市場価格で表示した国内総生産と要素価格で表示した国内総所得の差という形で、間接税や補助金については調整がなされています。

2 生産への貢献に対する報酬(賃金と営業余剰と財産所得)、つまり所得の分配と得られた所得の再分配(あるいは収奪)は実際には混合されて行われることがあります。

政府サービスで言えば、例えば市町村が自分が政府サービスを提供するために必要な財を、地元からだけ買うという場合、これは一部は実際は、対価ではなく地元業者への補助金と考えあることもできます。これは、政府サービスの生産に限って生じるものでもありません。親会社が子会社から優先して資材を調達する場合には、同じようなことが考えられます。

これらを厳密に、時機を逸さずに把握できればいいのですが、それは不可能です。ですから実際の計算では、混合されたものを生産への貢献に対する報酬(賃金と営業余剰と財産所得)、つまり所得の分配とみなして処理しているでしょう。

もっとも、「ある意味やばい経済学」で飯田先生が上げられた例のように全く何もしない、つまり生産に貢献しない主体への支払いが賃金とみなされるのはおかしいので、そのような極端なものを把握して、適切に分類する努力は必要でしょう。ついでですが、この場合、雇用統計も修正しなければなりません。さらに余談ですが、失業率を偽装したいと思う政治家はいるようです。

3 このような処理をして国内総所得を測るとすると、理想的な国内総所得との乖離が生じるでしょう。大きくなるのか、小さくなるのかは分かりませんし、どれくらい違ってくるのかも分かりません。

4 このような現実的な扱いをする限り、この体系の中では、やはり均衡予算乗数は再分配の乗数より1大きくなります。

5 政府支出の追加分にだけ現実から理想への転換を考えて、乗数を議論するというのは、問題提起の方法としてはいいかもしれません。私も、改めて考えましたから。しかし、本筋は統計の精緻化ではないかなぁという気がします。ついでですが、経済学を学部の学生に教えるのは、やめておいたほうがいいと思います。きっと、すごく学生の頭を混乱させ、経済学嫌いを増やしてしまいます。こういうのを面白がる学生もいるにはいるでしょうが。

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