均衡予算乗数 補足

均衡予算乗数」について少し、補足を。 1 価格について 国民経済計算では、取引された価格は、そのまま受け入れるというのが原則です。 民間の主体同士の取引でも、多数の主体が取引する市場で決まる価格、寡占状態の市場で決まる価格、独占市場で決まる価格、政府の統制を受けている価格、さまざまなものがあります。多数の主体が取引する市場で決まる価格でも、競り市で決まるような価格もあれば(さらに言うとセリの方式もさまざまです。)、スーパーで値札がついていて、それ以外の価格では取引ができないものや、値切りが可能なものがあります。一日のうちで価格が変わるものもありますし、電気料金のようにあらかじめ決まっているものもあります。買う動機、売る動機もさまざまです。 私は、以前、障害者の施設が作ったものを、割高だなと感じつつ買ったことがあります。値切るのが楽しみだとおっしゃる方もいると思います。 このようなさまざまな価格が適正なものかどうかなどということは、分かりません。基準自体分かりません。 賃金についても、組合との交渉で決まっているものもあれば、就業規則で企業が決めている場合もあります。ある労働者に支払われた賃金が、適切かどうかなどは良く分かりません。 そして一国全体の経済活動の状況を示すという目的で統計を作る場合には、とりあえず、現実に取引に使われた価格はすべてそのまま受け入れるというやり方で処理されています。そうしなければ計算ができません。無限に時間を掛ければできるかもしれませんが、こういう統計は、そんなに待てません。5年前のGDPが、今、分かったとして、今どのような政策を取るべきかという議論に役立ちません。 国民経済計算というのはそういうものだということを理解して使わなければなりません。 物質的な厚生という点で議論すれば、おそらく少なくとも四次元で考えなければならないでしょう。 適正な価格、適正な財・サービス、適正な作り手・買い手・使い手・受け取り手、適正な作り方、使い方 こういうものを考えて評価するのか極めて困難です。国民経済計算とは、また別の仕事です。 2 政府固定資本形成の場合 政府最終消費支出とは根本的に違っています。最終消費支出の場合は、政府自ら生産して政府が購入する。そこには市場が存在せず、普通の意味での価格が存在しない、そういう特殊なシステムでした。 政府固定資本形成の場合は、例外はありますが、政府は自ら生産するわけではありません。あくまで買い手として行動するだけで、生産は、建設業者、製造業者が行います。そこには市場が存在していて、価格が市場で決定されます。 ここでは、民間の経済主体が支出する場合と同じように支出額=生産額(付加価値額)=所得額(賃金額+営業余剰額)という関係が普通に成立しています。ここでは、生産主体に営業余剰が発生していることを記憶にとどめてください。 ですから、同じ政府の支出といっても、政府最終消費支出と固定資本形成を同じように考えてはなりません。 3 再び、政府最終消費支出の評価について さて、再び政府最終消費支出の評価を取り上げたいと思います。 政府によって生産された政府サービスの総額はその生産のために費やされた中間投入物の総額と賃金額の総額に等しいと仮定されています。中間投入物は他の生産主体から政府が買い入れているのですから、そこには市場が存在し、その価格は現実に取引された価格です。また賃金も実際に払われたものです。ですから、国民経済計算の価格の考え方に沿ったものです。 すると、政府の最終消費支出の総額がその生産のために費やされた中間投入物の額と賃金の額の合計に等しいということは政府のサービス生産、販売によって営業余剰が生じないということから導き出されることになります。 さて、本来であれば政府サービスが市場で取引されればいいのですが、そうはいきません。そもそも、排他性、排除可能性がないサービスには市場が成立しないか、したとしても適切な量のサービスへの需要が出てこない、あるいは、その外部性サービスに外部性があるため政府が提供しているのです。仮に市場があったとしても、そこで成立する価格が適切なものとは必ずしもいえません。 排他性というのは、ある人がそれを使っていると、他の人がそれを使えないという性質です。例えば、野球場を使って、試合をしていると他のチームは使えません。排他性がない例としては、テレビの電波があります。誰かが電波を利用してテレビを見たからと言って他の人がテレビを見られないと言うことはありません。多くの人が一つのものを同時に利用できる、この場合排他性がないのです。 排除可能性 道路を考えてみます。よほど混む道路でなければ、排他性はありません。道路の入り口にゲートを作れば、特定の車の利用を拒むことができます。高速道路を考えていただければよく分かると思います。排他性のないものも、排除可能性があれば、料金を取ることができます。 排他性がなく、排除可能性がないと、作る費用を出さずに、ただで利用することができます。料金を徴収できないのですから、このような財の提供によって、利益を上げることはできません。ですから、十分な供給が行われないのが普通です。警官のパトロールが典型的な例です。 このような事情を考え、また、政府が営利を目的としない組織であることも考え合わせると、現在の政府最終消費支出の評価が、理想的なものとは言えないまでも、許容できる範囲ではないかと思います。 国民経済計算の歴史は、まだ100年に足りません。これが、なお、不完全なものであることは、作る側は良く理解していると思います。改善の努力は続いていますし、使う側も、限界を理解しながら、慎重に使っていくということでしょう。 人気blogランキングでは「社会科学」の21位でした。今日も↓クリックをお願いします。 人気blogランキング