均衡予算乗数
飯田先生の「ある意味やばい経済学」を、読んで少し頭が混乱したので、整理を。
関係ない部分は省略していますので、ご注意下さい。(2006年12月24日に地代(財産所得)に関する追加を行いました。
以下で、×××(「○○○」)としてあるのは、私が×××と呼んでいるものを飯田先生が○○○と呼んでいらっしゃるということです。先生のエントリーを読むときの参考にして下さい。
Ⅰ 国民経済計算での政府の位置づけ
国民経済計算(「GDP統計」)では政府を次のように位置づけています。
1 他の生産者(企業以外のこともありますが、普通は企業です。)が生産したものを買い、労働者を雇って、政府サービスを生産する。この点普通の企業と同じです。
2 生産した政府サービスを自ら買い入れる。実際には他へ販売することもありますし、それを考慮して実際の国民経済計算は作られていますが、ここでは、議論を簡単にするためにすべて買い入れることにしておきます。
国民経済計算ではこれを政府最終消費支出(「財政支出」)と呼んでいます。
3 買い入れた政府サービスを、無償で提供する。
なお、これとは別に政府の固定資本形成を形成する主体であるという側面もありますが、問題が別ですので、ここでは取り扱いません。
さて、ここで政府サービスの価格はいくらかという問題が発生します。自分で作って、自分で買うのですから、市場が存在せず、普通の意味での値段が付けられません。
そこで、便宜的に他の生産者が生産したものを買ったときの費用、労働者を雇って支払った賃金の合計額と政府サービスの価格の合計額が等しいと仮定します。(2オ006年12月24日追記) 費用=販売額と考えているわけです。
このように仮定すると、面白いことが起こります。政府サービス生産者としての政府は、損もしないし、儲けもしないということです。売り上げが費用に等しいと仮定したのですから、ある意味で当然ではあります。
なお、普通の企業であれば費用と売り上げが一致しません。差額は損失か利益です。
利益は正の営業余剰と呼ばれています。損失は負の営業余剰と考えられています。これらは企業の所得です。
Ⅱ 国民経済計算の復習
さて、国民経済計算での生産、所得、支出の関係をおさらいしておきます。
国民経済計算上の粗国内生産(GDP)は一つ一つの生産主体が生み出した付加価値の総和です。そして付加価値というのはある生産主体が生産した額から、その生産のために投入した他の生産主体が生産したものの額を差し引いたものです。
説明の簡単化のため、海外との取引、在庫の変動がないと仮定します。こうすると生産されたものは、そのまま販売されることになります。生産=販売です。
一つの生産主体を考えると
販売額=生産額=中間投入物の購入額+支払った賃金+支払った地代(財産所得)+利益(損失)・・・(1)
となります。中間投入物の購入額+支払った賃金+支払った地代は費用です。この式は販売額-費用=利益ということです。
これをすべての生産主体について足し上げます。
すると
すべての生産主体の販売額の合計=すべての生産主体の生産額の合計=すべての生産主体の中間投入物の購入額の合計+すべての生産主体が支払った賃金の合計+すべての生産主体が支払った地代(財産所得)の合計+すべての生産主体の利益(損失)の合計
となります。
さて、この式のすべての項からすべての生産主体の中間投入物の購入額の合計を差し引きます。
すべての生産主体の販売額の合計-すべての生産主体の中間投入物の購入額の合計=すべての生産主体の生産額の合計-すべての生産主体の中間投入物の購入額の合計=すべての生産主体が支払った賃金の合計+すべての生産主体が支払った地代(財産所得)の合計+すべての生産主体の利益(損失)の合計・・・(2)
さて、この式の第一番目の項の意味を考えてみます。
売買という取引を考えてみれば、誰かが買ったときは誰かが同じ額を売っています。誰も売っていないものを誰かが買うということも、誰も買っていないのに誰かが売っているということもありえませんから。ただし、もちろん、売り手と買い手は普通は別です
すると「すべての生産主体の販売額の合計」とは「すべての経済主体がすべての生産主体から購入した額の合計」です。
そこで、第1項はこうなります。
すべての生産主体の販売額の合計-すべての生産主体の中間投入物の購入額の合計=すべての経済主体がすべての生産主体から購入した額の合計-すべての生産主体が中間投入物として購入した額の合計
これは、すべての経済主体が中間投入としてではなく購入した額の合計額です。つまり最終的な目的のために購入した額の合計額です。これを経済主体すべての最終支出と呼べるでしょう。これが粗国内総支出(GDE)です。
次に、第2項、「すべての生産主体の生産額の合計-すべての生産主体の中間投入物の購入額の合計」の意味を考えてみます。これは付加価値の定義から明らかなとおり、すべての生産主体の付加価値額の合計額です。つまり、粗国内総生産(GDP)です。
最後に、第3項、「すべての生産主体が支払った賃金の合計+すべての生産主体が支払った地代(財産所得)の合計+すべての生産主体の利益(損失)の合計」の意味を考えます。生産主体が支払った賃金額はその生産者に雇われた労働者が受け取った賃金額と同じです。また、すべての生産主体が支払った地代はその生産者に土地を貸し付けた主体が受け取った地代と同じです。すべての生産主体の利益(損失)はすべての生産主体の営業余剰の合計額です。ここでは生産主体以外は土地を借りないものとします。
すると、
すべての生産主体が支払った賃金の合計+すべての生産主体の利益(損失)の合計=賃金所得の総額+地代の総額+営業余剰の総額
です。これはすべての主体の所得の合計、粗国内粗所得(GNI)にほかなりません。
結局、(2)式は
粗国内総支出(GDE)=粗国内総生産(GDP)=粗国内所得(GNI)・・・(3)
ということを示しています。
Ⅲ 何がおかしいのか?
飯田先生が出された例はどこが食い違ってしまっているのでしょうか?
先生が出された例はこうです。
○ 失業保険(平家注 ここは失業保険料が正しいでしょう。)を徴収してそれをある失業者にそのままあげる。
○ 税を徴収してそれを使ってある失業者を雇うのに使う。(雇われた失業者は何もしない)
前者は単なる再配分。後者は財政支出だから(均衡予算)乗数が生じる。しかし、両ケースでマクロの可処分所得は全く変わらない。だって、お金を上げる行為の「呼び方」が違うだけなんだもん。
まず、現行の国民経済計算の形式だけで見ます。
再分配のケースでは、直接には国内総支出も、国内総生産も、国内総所得も変化しません。(保険を受け取った失業者が、消費することを起点とした変化は生じます。)
失業者を雇い入れるケースでは、国民経済計算では、国内総支出も、国内総生産も、国内総所得も増えてます。すべて、同じ額、つまり雇われた労働者に支払った額だけ増えます。国の生産する政府サービスは、この額と評価されます。つまり国内総生産はこの額だけ増えます。政府の購入する(支出する)政府サービスもこの額だけ増えます。したがって、国内総支出もこの額だけ増えます。そして、労働者の受け取る賃金(所得も)この額だけ増えるからです。当然、国内総所得もこの額だけ増えます。
つまり、どちらのケースをとっても、国内総支出、国内総生産、国内所得の均等は崩れません。この点に限れば、矛盾は生じていません。(この場合も、賃金を受け取った失業者が、消費することを起点とした変化は生じます。これは保険の場合と同じです。変化の量は、保険を起点とした場合と同じだと考えておきます。)
次に、実態を見ます。先生ご指摘のとおり、二つのケースでは、政府が労働者に金を払い、労働者は何もしないという実態に差はありません。したがって、国民が利用できる財、サービスの量にも差はありません(国民、これまでの説明と平仄をあわせれば国内居住者の物質的な厚生(経済的な厚生ともいえるかもしれませんが。)には差がないとも言えます)。それなのに、「お金を上げる行為の『呼び方』が違うだけ」で、二つのケースで国内総支出=国内総生産=国内所得の額が違ってきてしまいます。これは、矛盾(「食い違い」)です。
では、「なんで、こんな食い違いが起きるんだろう?」と問われれば、答えは簡単です。政府が労働者を雇っても、労働者に何もさせないということは、政府サービスの生産をしていないということです。それなのに、ここでも、政府サービスの生産が行われているかのごとく計算をしていくから矛盾が生じるのです。
では、これを解消するためにはどうしたら良いか?生産が行われていないのですから生産額、販売額=支出額=ゼロと置けばいいのです。この場合、所得はどうなるでしょうか。
販売額=生産額=中間投入物の購入額+賃金+利益(損失)・・・(1)
という式を思い出してください。ここで、政府サービスの生産のための中間投入物は購入されていませんからゼロです。政府サービス販売額=政府サービス生産額もゼロです。すると
ゼロ=ゼロ=ゼロ+政府サービス生産のために支払った賃金+政府の利益(営業余剰)
となります。
そうすると、
政府サービス生産のために支払った賃金=政府の損失(負の営業余剰)・・・(4)
となります。
労働者に賃金所得は生じますが、政府に同じ額の負の所得が発生しますから、国内総所得は変化しません。
こうすれば、二つのケースとも国内総支出=国内総生産=国内所得という等式は崩れませんし、二つのケースで国内総生産(=国内所得=国内総支出)の額が食い違うという現象も発生しません。
繰り返しになりますが、私は、この場合の本源的な問題は、政府サービスの生産をしていないのに生産をしているとみなすことだと考えています。政府サービスの価値を中間投入物と労働者に支払った賃金と同じだとする前の問題です。
(と書いて、一晩寝ながら考えて追加する必要を感じましたので、追加します。)
このように本源的な問題に遡ると、政府サービスの生産が行われていないのだから、そこでは経済学で言う労働が行われていないと言うことになります。したがって、雇われた人間に支払われたものは、経済学で言えば賃金ではないのです。労働というのは生産のために行われる活動ですから。そして、その労働に対して分配されるものが賃金ですから。なお、労働者に何もさせていないのですから土地を借りる必要もなかった、したがって地代=0だったと考えておきます。
では、どうするのが経済学的に正しいのか?答は簡単です。
生産額、販売額=支出額=ゼロと置くと同時に、賃金もゼロとすればいいのです。こうすると政府の利益(営業余剰)もゼロです。
こうすれば、(4)式の場合と同様に、二つのケースとも国内総支出=国内総生産=国内所得という等式は崩れませんし、二つのケースで国内総生産(=国内所得=国内総支出)の額が食い違うという現象も発生しません。二つのケースで厚生の水準も変わりませんから、厚生と国内総生産のバランスも崩れません。
でも、現実には、労働者は支払いを受けています。これをどう扱うのか?これも簡単です。政府から労働者への移転、つまり再分配とすればいいのです。
経済学や国民経済計算の体系そのものに問題があるのではなく、取引の名目に引きずられて、正しい分類をせずに具体的な計算をしてしまうから、問題が発生するのです。
経済学、国民経済計算の基本的な考え方に従って計算すれば、「前者は単なる再分配。後者は財政支出だから(均衡予算)乗数が生じる。」は、「前者は単なる再分配(「再配分」)。後者も一見すると財政支出だけれど実は再分配。だから(均衡予算)乗数は生じない。」となります。
(2006年12月19日 追加終わり。)
Ⅳ さらに進むと
では、先生の引用されたもう一つの例を考えてみます。政府が労働者を雇って、穴を掘らせ、的その穴を埋め戻させるという例です。中間投入はないものとして考えます。
この場合は、一応、労働者は労働に従事しています。サービスは生産されているといっても良いでしょう。しかし、物質的な厚生は向上しません。
解決策は二つあります。
穴を掘るという正のサービス生産が行われ、埋め戻すという負のサービス生産も行われ、総サービス生産はゼロだと考えることです。この場合、国内総支出=国内総生産=国内所得と国内居住者の物質的な厚生の乖離は生じません。一応は。
もう一つは、政府サービスは生産されたとして、普通の計算を行うことです。この場合、実質的な生産は行われていないのに、国民経済計算上の国内総生産は増えてしまいますし、物質的な厚生は変わらないのに、国民経済計算上の国内総支出は増えるという矛盾が生じます。
(2006年12月23日追記)1990年に建物を建て、2000年にそれを取り壊したときは、各々の年に生産があったとされます。それとの整合性を考えると政府サービスは生産されたと考えるほうがいいような気がします。
なお、このような作業をさせると、労働者は無意味な作業をさせられている、それしか自分にはできない、自分には価値がないと考えるようになり、精神的厚生は著しく低下するだろうと思います。
Ⅴ さらに進んでみる
確かに政府サービスが生産されている例を考えてみます。
二つの例を作ります。どちらも中間投入、地代はなし、賃金総額は同じとします。
警察官を雇って、治安の悪い地域でパトロールをさせる。
労働者を雇って、あまり利用者のいない公園の草むしりをさせる。
どちらも生産はしています。意味がないわけではありません。しかし、おそらく国民にとっての意味を考えれば、前者のほうが有益でしょう。その意味で、生産効率は前者のほうが高いと言えます。
ただ、もともと、国民経済計算の国内総生産は、経済厚生を正確に表すものではありません。厚生を考えるなら、「均衡予算乗数は政府支出の生産効率で決定される」という表現よりも、均衡予算乗数は1であるが、そこから生み出される厚生は、政府支出が適正なものであるかどうか、政府が賢明な支出を行うかどうかで違ってくるというほうが、分かりやすいのではないでしょうか?生産効率というと、生産すべきものは決まっていて、それをいかにして、安く作るかといった意味に受け取られる虞もありますし。
Ⅵ その他気がかりなこと
「財政支出」という表現では、政府最終消費支出だけではなく、政府固定資本構成も連想させます。こちらは、また別な議論になります。政府が生産するのではなく、企業から買うことになりますから。財政消費支出にでもされたほうが、良いのではないでしょうか?
「GDPはある年に国内経済が生み出した付加価値総額(y)を計算するための道具だ」の「付加価値総額」は、「粗付加価値総額」でしょうね。細かいことですが。
また「付加価値総額」を経済厚生の意味に、国内総生産を経済活動の水準の意味で使っておいでのようなのですが(間違っていたらすいません。)、これは分かりにくいです。国民経済計算上は、付加価値総額こそGDPなのですから。国内総生産=付加価値総額と経済厚生は一致しないと説明したほうが良いのではないでしょうか?
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