「「伊東光晴著 『現代に生きるケインズ』」について」について

「伊東光晴著 『現代に生きるケインズ』」について」にecon-economeさんから、コメントをいただきました。 ずれたお答えになってしまいそうなのですが、少し、思うところを。 まず、経済学の発展についてです。経済学が発展するには、二つの原動力があるように思います。 まず、現実の経済に何か解決すべき問題があり、これに対して既存の経済学が適切な回答を与えられない場合に、これを解決するため、あるいは解決できないまでも分析をするため、新たな展開が図られます。マーシャルの貧困の問題、ケインズの取り組んだ失業の問題が典型的なものとして思い浮かびます。道徳科学、エンジニアリングの学としての経済学を目指した発展と言えるでしょう。 これとは別に、経済学の体系整備も発展の契機です。例えば、1財の市場について、均衡の存在、安定性、一意性が検討され、解決を見たとすれば、次には2財、3財、多数財の市場の分析に進むのは、科学としての経済学の自然な流れです。 この二つに整然と区分できるわけでもなく、資本一定の下でのマクロ経済の短期の分析としてケインズの理論を受けて、ハロッドが資本に変化がある場合の長期の分析へと進んだのは、現実の問題解決のためという面もあり、体系整備の側面もあったように思えます。 この二つは、縦糸と横糸のようなものであり、経済学と言う布を作るためには、どちらも必要であり、また、相互に影響しあって行くものだろうと思います。 ミクロ的基礎を持つマクロ経済学というのはどちらかと言えば、体系整備と言う色彩が強いような気がします。 さて、前回の記事で合理的期待形成について、「「フォワードルッキングな期待形成を前提としつつ、」というのは、私は「フォワードルッキングな期待形成を仮定しつつ、」だと理解しています。そしてその極端な形がすべての主体が合理的期待形成を行うという仮定でしょう。極端なというのは、悪い意味で使っているのではありません。もっとも純粋なといった意味合いだと、受け止めてください。」と書きました。 経済学部で最初に習うミクロ経済学では、経済主体は自分の効用、あるいは生産可能集合と現に存在している価格体系だけを知っていれば、合理的に効用最大化、あるいは利潤の最大化を図ることができます。 一方、合理的期待形成を行う主体は、おそらく経済構造を知って初めて、経済構造に整合的な予想を立て、合理的に効用最大化、あるいは利潤の最大化を図ります。経済構造を知らなくても経済構造と整合的な予想を立てることができると仮定してもいいのかもしれませんが、それをどう説明すればいいのか、私には分かりません。 さて、どちらも合理的に効用最大化、あるいは利潤の最大化を図っている点では変わりはありません。差があるのは経済主体の現実認識能力に関する想定です。 初級のミクロ経済学で想定されている経済主体は自分のことと、現に存在している価格体系だけしか理解していませんし、それ以上の知識を必要とないのに対し、一方、合理的期待形成を行う主体は、経済構造を知っていなければなりません。経済主体が最低限自分のことぐらいは知っているだろうと考えるのは自然です。それすら知らない主体を考えるのは困難です。一方、経済主体が経済構造を完全に把握しているとすれば、それ以上の知識を持っている主体を考えるのは困難です。 (私は、自分のことすら理解できない経済主体を考えてみたことがありますが(「『ニート』のミクロ経済学」)、合理的な意志決定はできそうにありません。) なお、二つの経済については、時間の構造、静学と動学など大きな差がありますが、経済主体の差は上に書いたようなことだろうと思います。この現実認識能力に関する想定は両極端、あるいは非常に対照的な二つの純粋なケースだろうと思います。 私は、初級ミクロ経済学のモデルがが有益であるのと同様に、合理的期待形成を行う主体だけで構成された経済モデルも意味があると思います。それを否定しているわけではありません。 ただ、初級ミクロ経済学のモデルが現実と差があるのと同様に、合理的期待形成を行う主体だけで構成された経済モデルも現実との差があります。モデルとはそういうものです。それを意識せずに、このモデルに基づいて政策を考えるのは危険だと思います。モデルの想定がどの程度現実的かは、やはり重要で、すべての経済主体が合理的期待形成をしているという想定にはかなり無理な面があるように感じます。 人気blogランキングでは「社会科学」の29位でした。今日も↓クリックをお願いします。 人気blogランキング