起承転結は詩の作法

hamachan先生が、「でじゃびゅ」で、また懐かしい職業的レリバンスの話を取り上げられている。 職業的レりバンスについては、私の専門ではなく、関係者のご高見を承る程度にしておきたいのだが、大学教育については、「大学教育の基本的レリバンス」で次のように書きました。 私は、大学のどのような学部であっても、学生に社会人として意味のあるスキル、能力を身につける機会を提供することは可能だと思っています。 どのようなスキルかといいますと、その主張の根拠を明示して、自分の主張を明確に述べるスキルです。このスキルを身につけるのと同時に、自分の主張を述べるときには、その根拠を示さなければ、他人には理解してもらえないということも理解させる必要があります。 このような理解、スキルを持つことは、社会の中で生きていく上でかなり役に立ちます。この点では確信を持っています。 これを官能的にしか測れない人間力という風にとらえられるかもしれませんが、それは違います。人間力には、決断力とか、共感能力とか、エネルギーとかさまざまなものの組み合わせであり(違うかな)、そう単純には測れないものです。また、どうやって身に着けるか、方法論も確立されていないでしょう。しかし、ある人の書いた文章が論理的であるかどうかは、きちんと判定ができます。こういう文章にはがあるので、それをかけるようにするためのきちんとしたトレーニングの仕組みもあります。ヨーロッパの教養の基本でしょう。 私は、小中学校、高校で、このようなトレーニングを受けませんでした。日本の作文教育で教えられる文章の書き方は「起承転結のある文章を書け。」だったのです。これが学校で教えられる唯一の日本の文章のだったのです。言うまでもないことながら、このの起源は中国の漢詩の作法です。詩は論理ではありません。志を述べるとしても、論理ではなく情緒に訴えるものです。実社会で詩のような文書を書かれても困ります。 しかし、国語の先生方も私と同じような教育を受けきたので、この起承転結から離れるのはなかなか難しそうです。 このような状況では、論理的な文章の書き方は、大学教育に期待するほかはないと思っていたのですが。 ところが、神戸大学大学院の木村幹先生が次のようにツイートされています。 戻って非常勤採点。今回も「とりあえず講義に出てきた内容を羅列すればいいだろう」的な回答が大多数。「論じよ」という内容なのに、論になっていないから採点のしようがない。勿論、関係のないことを書けば書くほど減点した。せめて「何を書くべきか考えて書け」と言いたい。結果、膨大な不可の山。 これはどこの大学の学部教育でも似たような状況があるのだけど、結局、学生さんは「どうやったら論理的な文章が書けるのか」をトレーニングされていないので、どれだけ個別の内容を勉強してもちゃんとしたアウトプットができない。特に卒論や卒業研究が課されない、法学部や経済学部は酷い。 因みに本務校では大学院専任である事もあり、徹底的に「論理的に書く」為の教育を行っている。それでもやっぱり「何を書くべきか」決めずに何かを書き始める人は多い。結果として膨大な時間を浪費した挙句、できの悪い論文しか出来てこない。 論理的な文章の書き方を習おうと思ったら、大学院まで行かないといけない。いやはや、困ったものです。 人気blogランキングでは「社会科学」の13位でした。今日も↓クリックをお願いします。 人気blogランキング