平時忠

平時忠桓武平氏の一員である。桓武平氏のうち有名なのは平清盛が属する武門平家であるが、時忠の系列は、軍事貴族ではなく文官として生き、のちに堂上家の家格で定着したために、現在は堂上平家と呼ばれている。 時忠と清盛は同時代人であり、時忠の姉、時子が清盛の正妻(宗盛の母である。)であったため、清盛とのつながりで出世したと思われているようである。実はそうではないのではないかと疑っている。 時忠の出世の決め手になったのは姉ではなく、妹、滋子であるというのが私の仮説である。滋子は、後白河上皇の寵愛を受け、高倉天皇を生んでいる。つまり、時忠は、後白河上皇にとっては寵姫の血のつながった兄、高倉天皇にとっては、血のつながった母方の伯父なのである。 時忠の官位の変化を見ていこう。 まず、久安5年(1149年)4月1日に、20歳(異説あり)で従五位下で叙爵している。叙爵とは五位を授けられることで、ここからが貴族である。なお、五位以上の叙位は天皇の任命による勅授である。六位から八位は天皇に奏上して裁可を仰ぐ奏授、それ以下は太政官の判定による判授である。これは戦前まで引き継がれてきた。 五位、四位は諸太夫と呼ばれており、三位以上は公卿と呼ばれる。なお、太政大臣左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議は三位でなくとも公卿である。また、公卿を辞任したものも公卿である。 この年に父、時信がなくなっているが、時信は従四位上であった。時忠の家は諸太夫の家格であったのである。 保元3年(1158年)(29歳)11月26日に、従五位上に昇爵している。この間、9年かかっている。 永暦2年(1161年)(32歳)4月1日に、正五位下に昇爵している。 永万2年(1166年)(37歳)3月27日、正五位下に復位。ここからの出世はすさまじい。 仁安元年(1166年)(37歳)8月27日、従四位下に昇爵している。わずか5か月しかたっていない。 同11月3日、従四位上に昇爵している。父、時信の最高位階に並んだのである。同16日に蔵人の頭となっている。わずか、3か月である。 仁安2年(1167年)(38歳)1月5日、正四位下に昇爵している。わずか2か月である。 同2月11日、参議となる。四位で参議になるのは珍しいが、参議は公卿である。時忠は晴れて公卿になったのである。 仁安3年(1167年)(39歳)2月17日、従三位に昇爵している。 同8月4日、正三位に昇爵している。わずか6か月である。永万2年に、正五位下に復位してから、正三位になるまで、わずか1年5か月なのである。これから後は昇進は遅くなる。 承安4年(1174年)(45歳)1月11日、従二位に昇爵している。 治承3年(1179年)(50歳)1月7日、正二位に昇爵している。 この間、いったい何が起こったのだろうか。実に単純である。滋子、高倉天皇の動きを付け加えてみる。 保元3年(1158年)(29歳)11月26日に、従五位上に昇爵している。 永暦2年(1161年)(32歳)4月1日に、正五位下に昇爵している。 応保元年(1161年)4月、滋子、後白河上皇とともに院の御所、法住寺殿に移る同9月、滋子、後白河上皇の第7皇子、憲仁を生む。 永万元年(1165年)7月、二条帝崩御。六条帝即位。後白河院政始まる。同12月、憲仁に親王宣下 永万2年(1166年)(37歳)正月、滋子、女御となる。 3月27日、正五位下に復位。 仁安元年(1166年)(37歳)8月27日、従四位下に昇爵。 同年10月10日、憲仁立太子時忠は、将来は天皇の伯父となることが決まったのである。 同11月3日、従四位上に昇爵。 仁安2年(1167年)(38歳)1月5日、正四位下に昇爵。 同2月11日、参議となる。 仁安3年(1167年)(39歳)2月17日、従三位に昇爵。 同年2月19日、高倉天皇即位。時忠は、天皇の伯父となったのである。 同3月20日、滋子皇太后となる。 6月、滋子の父(=時忠の父)時信に正一位左大臣が追贈されている。 (注)藤原得子=美福門院の父藤原長実も、生前は正三位であったが、得子が近衛天皇の母であり、近衛天皇が即位したとき皇后となったため、正一位を追贈されている。皇后、皇太后の父は正一位というのが相場だったようである。 同8月4日、正三位に昇爵。 嘉応元年(1169年)滋子、院号宣下。建春門院。時忠は院司となる。 承安4年(1174年)(45歳)1月11日、従二位に昇爵。 安元元年(1176年)、7月8日、滋子、世を去る。 治承3年(1179年)(50歳)1月7日、正二位に昇爵。これが最後の昇叙である。 治承4年(1180年)(51歳)2月21日、高倉天皇譲位。安徳天皇即位。ここで時忠は外戚ではなくなった。 治承5年(1181年)(52歳)1月14日、高倉天皇崩御 要するに、時忠は、妹滋子の夫である後白河が政治権力を握り、甥である高倉天皇親王、太子、天皇である期間に昇進を重ねたのである。 余談であるが、高倉天皇安徳天皇の二代を平氏系王朝と呼ぶことがある。確かに桓武平氏系王朝なのであるが、細かく見れば高倉天皇は、中宮は武門平氏から迎えているが、堂上平氏天皇であり、安徳天皇は武門平氏天皇なのである。 人気blogランキングでは「社会科学」の番外でした。↓クリックをお願いします。 人気blogランキング