厭債害債さんにお応えして

子ども手当の本質的な政策目的」に厭債害債さんから次のようなコメントをいただきました。

おおむねほとんどのかたがたはお金のあるなしにかかわらずきちんと子供をお育てになっていると思います。お金が必要な家庭を対象にするなら所得制限をつけてやはり救貧対策としてやるべきだと思いますしそれこそが不公平の解消につながる。所得制限なしにこれを配るとあまり不公平の解消となりそうもないと思います。また、援助なしに「子供を育てる」ことがハンデで「損」で「不公平」というイメージは、自分の子育ての経験からもあまりぴんときませんでした。

「おおむねほとんどのかたがたはお金のあるなしにかかわらずきちんと子供をお育てになっていると思います。」というご意見については、異論はありません。

子どもを育てる経済的な負担を本来誰が負うべきなのかという点が、この議論のポイントなのだろうと思います。

本来親が負ううべきだとすれば、所得や資産が少ないせいで親としての責任を果たすことができない、そういう「お金が必要な家庭を対象に」対して経済的支援を「所得制限をつけてやはり救貧対策としてやるべきだ」というのが自然な流れだと思います。また、もし、所得や資産が少ないのが、本人の責任ではない別な原因によるものだとすれば、そのような制限付きで給付をすること、「それこそが不公平の解消につながる。」と思います。

このような考え方ではなく、将来、子の世代が連帯して親の世代を経済的に扶養するのであれば、親の世代が経済的な面で連帯して子の世代を育てるべきであるという考え方もありえます。伝統的な発想からは飛躍していますが、この考え方に従えば、親の世代に属するものは、他人の子を育てる経済的責任を、自分のものとして持っているのです。そうすると、「所得制限」という発想は出てきません。貧富の差が問題であるのなら、一般的な所得再分配のシステムで対処すればいいことです。

なお、このような観点で子ども手当を制度設計して、それでも子どもを育てるのに所得などが足りない方に子ども手当とは別に援助を考えるということは十分あり得ると思います。

「援助なしに『子供を育てる』ことがハンデで『損』で『不公平』」だというイメージは、私も持っていません。そういう意味で損を補填しろ、不公平をただせということを言わんとしていたのではありません。そういう個人的な感情の問題として捉えているのではないのです。高齢者の経済的扶養のための社会システムとして強制的な公的老齢年金制度を作ったのであれば、それに対応した強制的な経済的な子育てのためのシステムを作らないと、社会の世代間扶養のシステムとしてバランスがとれないと言いたいのです。そのようなシステムがないと、子のない人は、本人の意図とは無関係に、自分が将来扶養して貰うのに、何の経済的負担もしない、つまり強制的にフリーライドをさせられることになります。それが社会システムとして良くないのです。この意味では前回のエントリーで「不公平」という言葉を使ったのは適切ではなかったかもしれません。個人レベルでの不公平とか損という問題とは別です。

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