ギャップ

2007年7月2日付の朝日新聞の「私の視点」欄に、アメリカ在住の作家の冷泉章彦さんが「慰安婦決議 深い認識差に気づこう」という文章を書かれています。私が理解していなかった問題を、うまく説明されています。非常に考えさせられる文章です。

まずは、引用から。

「アメリカの世論は、日本政府が『戦前の名誉回復』に熱心になる心理が全く理解できないのである。(中略)アメリカの世論は、(中略)現代の日本文化は大好きだ。だが、その日本とは、戦後に民主国家として再出発した日本であって、第2次世界大戦を戦った敵国日本とはキチンと区別をしているのである。自分たちが区別して付き合っているのに、相手のほうが過去からの連続性にこだわっているというのは感覚として全く理解されないのだ。」

「意見広告に見られたような、『歴史的事実を問う』というスタイルも有効ではない。『歴史的事実』より戦後処理と和解という『政治的判断』がすべてだった、というのが米国の歴史認識だからだ。」

「今回の問題では(ママ)、両国の間に多くの深刻な『コミュニケーションギャップ』が存在することをしめした。このような行き違いが繰り返され、(中略)『価値観を共有できない国』だとして、日米関係を軽視する口実に発展する可能性は十分にある。

 そうした意味では、決議は本質的で深刻な問題もはらんでいる。」

「先進国が共有できる『共通の価値観』が、いま以上に重視されるようになって行くだろう。日本だけが過去の名誉にこだわり、独善的でその場しのぎと受け取られるような対応を繰り返していては、そうした動きに取り残されていくおそれがあるのだ。」

冷泉さんの観察は、かなり正確なのだろうと思います。

さて、久間防衛大臣の原爆の投下は仕方がなかった、それで戦争が終わったという発言です。朝日新聞の報道によるとこういうものだったようです。

日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。

 幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。

 米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。

この発言は、国内ではいろいろなところから批判を受け、今日(7月3日)、防衛大臣は辞任されました。

もし、この発言がアメリカで正確に報道されれば、アメリカの世論は、第二次大戦が正義の戦いだったという認識と「戦後処理と和解という『政治的判断』がすべてだった」という歴史認識に基づいて、久間大臣の、この発言を全面的に支持するでしょう。

われわれは、戦後に民主国家として再出発した日本を、第2次世界大戦を戦った敵国日本とはキチンと区別をしているのである。自分たちが区別して付き合っているのに、現在の日本が、第2次世界大戦を戦った敵国日本に対する原爆の投下にこだわって、アメリカの過去の行動を批判するのか?それを批判することで戦前の日本の行動を擁護し、名誉を回復しようというのか?

また、仮に、イラク戦争がアメリカの期待通りに終結し、民主的なイラクというものができ、戦後処理がなされ、和解が成立したとします。そのときイラク人が「サダム政権は、ひどい政権であったが、でも、大量破壊兵器は作っていなかった。」と主張したら、アメリカ世論はこういう可能性があるでしょう。

『歴史的事実』より戦後処理と和解という『政治的判断』がすべてだ。大量破壊兵器を現実に作っていたかどうかに、どうしてそんなにこだわるのか?サダム政権の名誉回復を図ろうとするのか?

であれば、アメリカの政治家は、アメリカ世論から支持される適当な口実があれば、それが事実ではなくとも、どんな国にでも介入していくでしょう。戦争になっても、戦前と戦後を区別し、戦後処理を行い、和解をすればそれでよく、歴史的事実など些細な問題だと世論は考えてくれるのですから。戦争への敷居は非常に低くなります。

さて、敗戦国の国民も、アメリカ世論のように、歴史のある自分の国を戦前と戦後で「キチンと区別」し、過去からの連続性にこだわらずに、全く別物と割り切ることが可能なのでしょうか?

敗戦国の国民は、『歴史的事実』より戦後処理と和解という『政治的判断』がすべてだというアメリカの歴史認識を共有できるのでしょうか?

もし、これができないのであれば、敗戦国は、アメリカと敗戦国の間の深刻な『コミュニケーションギャップ』の存在を十分意識し、『価値観を共有できない国』だと思われないようにしながら、アメリカに対応していく必要があります。

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