「改革利権」?

昨日、2006年8月10日の日経新聞に「規制改革失速の恐れ」という記事が出ていました。

イントロとして7月31日に規制改革・民間開放推進会議が中間報告を出した後の記者会見の模様が紹介されています。

以下引用です。

八代尚弘・国際基督教大教授が声を荒らげる場面があった。オリックス会長の宮内氏に「改革利権」を手にしているのではないかという趣旨の質問が出たときだ。「利権は規制や保護政策で生まれる。それを改革して誰が利権を得るのですか。(改革利権という)不正確な言葉を定義もせずに使っていいのでしょうか。」

引用終わり。

八代先生の論法だと、規制改革を進める限り、原理的に「利権」は発生しないということになります。私は、必ずしもそうではないと考えます。

まず、規制が完全に撤廃されるのではない場合を考えます。緩和ですね。元の規制の体系をXとして、これを緩和する場合には選択肢はひとつだけではありません。ここで、Aという規制の体系、Bという規制の体系があるとします。どちらも緩和されていることには代わりがありませんが、中身が違う。

すると、体系Aが有利な個人、企業もあるでしょうし、体系Bが有利なものもいます。すると、どちらを選ぶかによって、有利、不利が発生します。仮定の話として、この会議のメンバーにとって有利な体系が選ばれていたとしたら、疑惑を招くでしょう。これを「利権」と呼ぶかどうかは、まさに「定義」の問題ですが。

同じことは、どの規制から改革を始めていくかの選択の場合も、生じます。自分の利害に直結するものから優先的に手をつけたとしたら問題でしょう。これを「利権」と呼ぶかどうかも、「定義」の問題です。

さらに、タイミングの問題があります。ある規制が撤廃・緩和され、ビジネスチャンスが生まれたとします。このチャンスは、すべての個人、企業に平等に与えられなければなりません。

ここで、特定の個人、企業だけがこのような撤廃・緩和がなされることを事前に知っていたとします。可能性が高いという情報でも、本質は変わりません。この個人、企業が他の個人、企業より早めに参入の準備を進め、スタートダッシュで差をつけたらどうなるでしょうか?これは証券市場でのインサイダー取引に似たものです。これを「利権」と呼ぶかどうかも、八代先生のおっしゃるように「定義」の問題です。

自分たちは抵抗勢力と戦い正義の改革を進めているのだから、原理的に利権につながることはない、と考えてしまうと脇が甘くなります。改革は、時として、改革そのもの結果ではなく、改革者の身辺の問題で挫折します。

「李下に冠を正さず、瓜田に履を入れず」といった痩せ我慢も必要ではないですか?

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