「待ち組」と「賭け組」
「待ち組」と「賭け組」(http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060203#p1)、この駄洒落精神に富んだ言葉を読んだとき、ふと思ったことがあります。
手元に資料がないので、うろ覚えのところがありますので、ご容赦を。
日本の対英米開戦の経緯です。
日本が、最終的に対英米開戦を決定したのは、昭和16年12月1日です。このとき日本はドイツと同盟を、ソ連と中立条約を結んでいました。
ドイツとソ連は16年6月に戦争を始めており、日本は微妙な立場にありました。ソ連との間には潜在的な緊張関係があり、中立条約を結んだからといって警戒を怠るわけには行かなかったのです。日本とソ連はお互いに潜在的脅威であったのです。
開戦決定時には、ドイツはイギリス、ソ連以外のヨーロッパを抑えており、ソ連に攻め込んだドイツ軍はモスクワ前面まで到達していました。ドイツ軍のモスクワ占領、首都を奪われたソ連の敗北という予想はかなり強かったのです。
日本の開戦決定にこのことがどの程度影響していたのかは分かりませんが、何の影響も与えなかったとは考えられません。
このような状況の下で、日本は開戦を決定するのですが、別に戦争の勝利を確信していたわけではありません。緒戦(戦争ではなく戦闘)には勝利するが、戦争が長期化すればどうなるか分からないという判断だったのです。
まあ、ソ連の脅威もなくなっていることだし、アメリカとの交渉を続けていると、石油もなくなってしまうから、賭に出るほかないと考えたのです。
皮肉なことに、12月5日にはドイツ軍はモスクワ攻略を断念します。12月8日には真珠湾を攻撃します。そして、この日、ヒトラーは攻撃中止を公表します。
さて、日本が開戦を決定せず、独ソ戦の決着を待っていたらどうなっていたでしょうか。あるいは開戦するかどうか遅疑逡巡していたらどうなっていたでしょうか。短ければ1週間、長くて1月で、ソ連が未だ負けず、独ソ戦が終わらないことが分かったはずです。
さらに1年ほど待てば、ドイツ軍がスターリングラードで敗北します。ソ連が勝つ可能性がかなり高いことが分かったはずです。
待つか賭けるか、賭けるか待つか、簡単ではありません。
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